Homoeopathyとは
創始者
Samuel Hahnemann(サミュエル・ハーネマン)
1755年4月10日 – 1843年7月2日


made by Mélanie Hahnemann in 1835, in Paris.
ナポレオン1世として名高い
Napoléon Bonaparte(ナポレオン・ボナパルト)
1769年8月15日 – 1821年5月5日
彼の生きた時代と重なる時代背景の中で生み出された医術
ナポレオンが51歳で亡くなっていますが
1800年頃の寿命は日本では30歳代
ヨーロッパで40歳とされている時代に、
現代の平均寿命に匹敵する88歳という
当時の平均寿命の倍を生きた人でした
Homoeopathy History

当時の流行病と医術
1779年24歳のハーネマンさんは医学博士号を取得しましたが、
その時の、今の西洋医学につながる医術は正統医学と呼ばれていて、
性病の梅毒には水銀の服用
病気の原因は血液が汚れているから(現代的には血液がサラサラではないから)という理由で
瀉血(しゃけつ)をしていた時代でした。


この医術行為は医師だけでなく、「理容店外科医」と呼ばれる理容師もおこなっていて、
英雄医学と呼ばれ、この医術行為をおこなうシンボルとして
動脈、静脈、包帯をイメージした「バーバーポール」が取り付けられるようになったと言われています。
この医療行為は現代であれば、「そんなことありえるの!?」というレベルのものですが、
その医術を受けようとした人がいたのは間違いのない事実のようで、
医術を受けた人は、その医術のせいで死亡することとなり、
なんとか生き延びても廃人状態となっていたというのです。
ハーネマンさんは、そんな医術をおこなうことに疑問を持ち、
英雄治療をおこなわず経過観察のみをおこなう「観察治療」をおこなうようになり
そのまま亡くなってしまう人と、何も治療をしなくても完治する人がいることを見出し
なぜ完治するのかの観察を続け、1797年 42歳のときに正統治療からの離脱を宣言します。
これまでの期間には
1784年 29歳『性病についての論文』
1789年 34歳『性病と新手法の水銀の調剤とを顧慮した外科医のための指示書』
1790年 35歳『カレンのMMを英語からドイツ語に翻訳』『ハーネマン最初の実験』
1792年 37歳『ゴータのエルンスト伯爵から城の一部を精神病院として提供され勤務(15カ月滞在)』
『健康の友(治療上の摂生規則)』
この時期、英雄治療を猛烈に批判し、正統医学をおこなうものからの嫌がらせを受けて、
その後1805年まで11か所を転々としたそうです。
その間の1796年 41歳のときには、『新しい原理についての小論』『同種を追認した観察結果』を公表。
ほとんどの病気は根本原因を見つけることが不可能であると考えたといいます。
当時であれば病気の原因は血液が汚れているからと説明されていることは根本の原因ではなく、
本当の根本原因を見つけることは不可能であると言っているのです。